前編ではフェラーリターボの系譜と歴史に少し触れたが、ここからは488GTBのドライビングインプレッションをお伝えしよう。

加速の炸裂感こそ、かつてのターボフェラーリの魅力の正体。80年代の「ドッカン・ターボ」フェラーリのインプレッション!
80年代のターボフェラーリは、愛車の288GTOを除き、ドッカン・ターボである。328ボディを纏ったスペシャルなGTBターボは、世界的に現存する個体が少なく希少なことからか、現代においてもほとんどメディアでは語られることがない。コンディションの良いGTBターボは、スーパーチャージャーみたいな穏やかなトルクベンドを描く288GTOよりも、はるかに加給セッティングが過激で刺激的だ。GTBターボは、そのラグジュアリーな装いに反し、ベビー40といっていいくらい、炸裂するターボカーだ。いま乗ってもエキサイティングなリアルスポーツカーである。
F40は、17年前に行った真冬の早朝ロードテストでは、標準装着のピレリが空転し、コーナー出口で、スロットルワークよりやや遅れて急激に立ち上がるドッカン・ターボのおかげでノーズはトっ散らかって背中に冷たい汗をかいたものだ。それを卸すテクがドライバーに要求されるが、俄然チャレンジしたくなる欲求に抗えない、素敵なマシンだ。
F40は、踏まなければ別にどうということもなく平和で、乗り心地も良かったりするケブラー繊維とカーボンによるコンポジットマテリアルを纏った工芸品だが、アクセルペダルを踏み込むほどコクピットはヤバイ空気に支配されていく。そして、実際にドライバーに牙を剥く狂獣だ。だからこそ、いまも走らせているだけでFun!なマシンだ。
当時、タイヤはせめてブリジストンのエクスペディアに履き替えるべきと試みたが、実際その効果はたいしたものではなかった。つまり、80年代のターボフェラーリは、288GTOを除き、刺激的で暴力的。炸裂する加速フィールに満ちあふれている。
つまり、かつてのターボフェラーリは、“ドッカン・ターボ”だったからこそ、皆をとりこにしてきた。速さの実測値ではなく、スリリングな挑戦へと駆り立て、かつ不安な気持ちに陥れ、暗黒面へと吸い込まれそうなホラー感覚。己を奮い立たせ、それに打ち勝ってドライブする勇気を自画自賛させてくれたのが、かつてのドッカンターボフェラーリの魅力の正体だ。
■実際のところ、488はメッチャ速いが、ドッカンじゃない。
488GTBは、スムーズで速い。本気で踏めば恐ろしく速いはず。でも、その速さには、F40やGTBターボのような手に汗握らせるものはない。少なくともこのスペックは公道で持て余す。そして、80年代ターボフェラーリよりも知性的だ。
そんな21世紀のフェラーリターボは、意識しなければ自然吸気のようなリニアな感覚さえあるが、488は正直なところ、一般道では、“フェラーリ”ということ以外、よくわからないクルマ、というのが本音だ。速いクルマは他にもある。知性的なクルマを求めるならばポルシェというドイツ勢もある。なので、今度サーキットに持ち込むとしよう。
488GTBを高速道で乗っていると、法外なアジリティを意のままにコントロール出来そうな、錯覚した万能感に包まれる。実際、コントロールしてくれているのは先進的な電制デバイスの数々なのだが。それを感じさせないところが良い、と知人ライターたちは絶賛しているが、それは余計なお世話、と思うのは、どうやら筆者だけのようだ。
さて、488の万能感は何かに似ている。マクラーレンのMP4-12Cだったか、AMGの何とか・・・ハイパーセダンだったか、まあそんな感じだ。つまり、これまで筆者の記憶に刻まれるほどのスリリングな体験が出来なかった、限界値が高過ぎるクルマたちを想起させる。
スポーツカーは計測値よりも、感性の速さが優先される?
一方、フェラーリV8最後の自然吸気エンジン搭載車、458スペチアーレはどうか。488同様に一般道では万能感に包まれそうな錯覚をもたらすハイスペックだが、とりあえずエキゾースト・サウンドには満足している。最近のフェラーリは、エキゾースト“ノート”と呼べるほどの美声で鳴くわけではないが、回転計の上昇に応じて、割れそうなカン高い音がその気にさせる。488は街乗りでもそれなりに快適なGTカーだが、458スペチアーレにはそれがない。飛ばさないと秘めたスペックがわかりにくいレーシングテイストに包まれている。少なくともV8フェラーリに美声を求めるなら、328、348、F355にヤンチャな社外マフラーを付けるのが一番いい。
488は、癒される?
一方の488のドライビングプレジャーはどこにあるのか? ひたすら速いのはわかった。なお、クルマなのだからそれでいいのだが、極めて“安全”な感じ。ウチの設備では測定できないが、剛性感の高さは十分に体感できる。サウンド? これは多くの自然吸気派がコキおろすほどのものでもない。フェラーリビギナー(?)が聴けば、表層上・・・フェラーリサウンドだ。ただし30分も走らせると、それまで気にもしてなかった中域から低域にかけてボーっと低く唸り続けるボンヤリとした低周波が、かつての突き抜けるような自然吸気フェラーリサウンドとは異質な周波数を自然吸気派たちの耳が抽出し、気にしはじめるのだ。
日産シーマのリカルド製エンジンをチューンアップしたマクラーレンMP4-12Cも残念ながらそうだったように、ある意味これは、日頃激しいビジネスの戦場で戦うパワーエリートたちにとって、“癒しのサウンド”かもしれない。
ターボカーとして低回転では低音域を発し、アクセル開度によって突き抜ける高音域が絶対的に辺りを支配してゆく・・・あのF40やGTBターボの乾いたエキゾースト・クライマックスとも、やはり違う。しっとりと重厚なのが21世紀のフェラーリ・ターボサウンドだ。意図的に、らしく作られた音だ。
488の登場で、むしろ貴重になったフェラーリ・ビンテージ「ターボ」モデル。
488は、街中を転がす富裕層や、パワーエリートにふさわしいクルマだ。完成度が高い。しかし、感性を刺激する度合い・・・言うなれば、「感性度」?の点では、ますますクラシック・ターボフェラーリに軍配が上がり、‘80年代のフェラーリターボモデルの希少性を再認識せざるを得ない。
この手のスポーツカーに求めるものは、何だったか?筆者自身も時々考える。
TPOによって、自身の置かれる状況や季節によっても、嗜好のプライオリティが変わるものだ。ラリーイベントなどで旧車ばかり乗りまわす日々が続くと、壊れない現代のハイスペックマシンこそが最良と思い、またある時は、ハイスペック車のパフォーマンスをもてあます状況に直面すると、スペックなどどうでもよくなってくる。
デザインに惹かれ、乗り味を求め、枝葉末節なドライビングプレジャーのあれこれをつつきまわしてさまようのは、我々エンスーが長く患ってきた重度の病を完治させたいからだろう。胸を熱く焦がすクルマを求めて・・・。